愛国心はどこで感じるものか。

この夏は、ロンドンオリンピックに始まり、領土問題に終わろうとしている。嫌でも愛国心というものを再考させた時期だった。

愛国心というものの定義は非常に難しいようだ。ナショナリズムという訳が適切かどうか分からないが、誰しも祖国というような概念は持つものであり、愛国心を感じるのは祖国、つまり産まれた国であろう。

では、その産まれた国・祖国を愛するのかどうか、そもそも何を愛するのかというと、とても難しいのではないか。誰しも国土を愛してはおらず、その国に住む人を愛しているはずだ。また、その国に住む人というのは話す言語とも密接に結びついていると感じる。つまり、愛国心というものは、国を代表して戦う人だったり、オリンピック代表選手のような人達の活躍をもって初めて意識される。意識させられるとも言える。

ただし、その人達が祖国がどこか、人種が何か、民族が何か、ということについては比較的寛容で、日本語が流ちょうに話せるかどうかが、その人達への愛国心を対象物として見ることが出来るかどうかに依存している気がする。あまりあり得ないが日本に産まれて全く日本語が話せない代表選手と、祖国は外国だが日本語が流ちょうな代表選手がいたとして、その活躍がうれしいのは、おそらく後者になりがちだと思う。
逆に、国籍を変えてまでオリンピックに出ることの揶揄された人物がいくつかいたが、日本人は仮に肌の色が違う人が日本代表になったとしても、その人物が日本語が流ちょうであると、かなり寛容になる。

当然、その国の文化や風習、風土や気候、住みやすさなども愛国心の一端を担うはずだが、それらは大部分が人が演出し作り出すものであり、やはり対象となるのは人だ。
日本の優れた、愛すべき民族性、この場合、国民性と言い変えた方がいいかもしれないが、例えば最たる例として、現金の入った財布を落としても戻ってくる確率がかなり高い、という世界でもまれな協調性と誠実性を持っている。

そういった国民性は、実は日本国内でしか理解しあえていない。愛国心を持ってして領土を奪い合うような時、それはそれぞれの国民性のぶつかり合いにもなろうし、愛国心の量の違いで勝負が決まるのかもしれない。同じく儒教を根本にした、日本と韓国は理解しあえているのか?、こうして漢字を使っている現代においてまで、多大な影響を受けている中国とはどうなのか?、多分、理解しあえてないから衝突しているのだろう。

たかが、島一つを巡って、国論を二分するような騒ぎを、もっと本質的なところでぶつけ合う、つまり国民性を誇りに持ち、誰かが戦ってくれればいいのかな、と他人事のように思ってしまう。
でも、所詮、遠い島の国土がどっちのものかなんてことは、大多数の国民にとって、何の損得にもならない。その事実を分かった上で、国民同士が国民性をぶつけ合う。言論上の闘争ならいくらでも結構だが、どうもそれが、いじわるに繋がる、他方を排除する方向になるのは良くない。

結果、大多数にとって損得とは遠いところでの争いは、自国の政治情勢への非難と自己否定に結び付く。そうでもしないと愛国心の現わし方が分からないとでも言うような。ただ、政治に結び付くのも一理ある。愛国心とは、結果的に人に対するものであるが、それ以外は抽象的であり、向かう先がない。代表選手などへの応援はとても具体的だが例外として扱うものだろう。とすると、国を代表している人であり、それは政治家となる。国際的に活躍する選手やアーティストなどは、素晴らしい人が目立つだけであって、素晴らしくなければ戦えてないし売れていないだけのこと。政治家は、海外と戦っている。つまり外交。そこは勝ち負けが国民に晒される世界でもあるからだ。

本田圭佑のメッセージ/激白その1 - サッカー日本代表ニュース : nikkansports.com

サッカーの本田選手がこのように語っている。彼なりの解釈として非常に端的で分かりやすい。

自分はもっと複雑に考えてしまうが、愛国心は平和を求めて希求されるものではなく、どちらかというと戦争や紛争など争い事が結果として付きまとうようなものに、付属物として付いてまわる。彼の論を借りれば、平和であると愛国心は薄れ、紛争状態の方が愛国心は増長する。今の時代、戦争NGは共通認識であり、愛国心とは戦争をしない国を目指すために発揮されるものではなく、戦争を避けてなお、どうやってそれを発揮し平和になるかを模索する道具だ。
紛争を愛国心の戦いにしてしまっても、出口がないことは明らかだ。

うーん、書いててもまとまらない話になってしまった。それぐらい難しい問題であるはず。

こうなってくると、果たして国土を侵害するのは悪であるが、愛国心から国土・島を愛している訳でないとすると、何を守りたいのだろう。国家を規定する重要な要素に国土・領地があり、それの浸食は国家の否定・攻撃であるから、それは守らねばならない。という単純な論調はピンと来ない。ゆえに、その論戦から逃げるように、その土地にまつわる利権争いがあるからだという解釈に流れる。その損得勘定へ流れるなら、もっと別の見方もあろう。

例えば、尖閣諸島を地下資源や漁業資源の争い以外に、実は大した意味を持たないのだとすれば、その資源を相対的に人件費の安い中国が開発し、それを買った方が、日本国民にとっての総コストは安かったりしないだろうか?人件費の高い日本企業による開発とは、果たして本当に社会コストとしても割が合うのか?

もしかすると、中国に領土を主張する権利は渡して、その代わり資源利用権は日本が持ち、というようなバーターが成立したら、意外と丸く収まったりしないのだろうか。もっと言うと、資源を本当に有効利用出来るのは日本でも中国でもないとするとどうか?日本が資源小国であることは事実だが、そこのわずかな面積の資源に対し、日本の周囲に広大に広がる海洋資源は、いくらでも豊富に存在し、尖閣周辺だけをどうこう言ってもあまり意味の無い事ではないか?

たぶん、お互いに愛国心という幻想が邪魔をして、まともな分析と議論が出来ていない気がしてきた。逆に、そこまでして国土というものを主張することが重要ならば、実効支配がどうこうではなく、他にもある様々な領土問題を積極的に解決させるべく、遠慮なしに戦うべきなのかもしれない。それを根本的に重要なものかどうか分からなくなっている日本国民が、問題を棚上げすることが一番だという結論を出してきた時点で、国土とはさほど重要なものではないのだろう。そこから得られる資源も、日本全体からみれば小さなものだろう。

極論ではあるが、それら小さな島で、しかも本質的な重要性が薄い領土とやらは、渡してしまったところで、実行支配をされてしまっている時点で、別のもっと大きな次元で戦うべきなんじゃなかろうか。
日本人は、他人の落とした財布を搾取することなく戻してあげる国民性であり、そこが誇れるものなのだ。つまり、私欲を捨てて他者との協調を選ぶ誠実性を持ちあわせている。領土への私欲を捨てて戻してあげる、という考え方を、もともとの所有者が落として返ってこないと嘆く張本人ではあるのだが、この際、所有者が誰かという証明は捨てて、大きな枠組みでの協調を考えるべきだと思う。