インターネット社会とクルマ社会の比喩

インターネットは20世紀後半からの現代において、最大の産業革命であり、そのインターネット無しには成立しなくなった社会は、20世紀に発展したクルマ社会の過程から、学ぶべきものが多いと思う。

そんなことをふと感じたので、インターネット社会で起こっている様々なことを、クルマ社会や道路事情の歩んできた中から比喩をして、分析してみたくなった。

きっかけは、「匿名掲示板は是か非か?」という問いに対して、どこかの誰かが「クルマだって、道路があって、ルールがあって走っている。匿名掲示板だって、一定のルールとマナーを皆が守ってこそ発展し定着するものだ」という主旨のコメントをしていた。うん、非常に僕の琴線に触れるコメントだ。

インターネットは、アクセスする、トラフィックがうんぬん、というキーワードが頻出するように、そもそもクルマや道路と近い概念がある。
クルマが走る道路であり、データが流れるネットワークである。
どちらも、広い意味で、誰もが自由に走れるし流れる。
道路は国が管理し、インターネットは国が管理はしないが、インフラストラクチャーとしては、国民の生活に不可欠な存在になっている。道路が無かったら、どこにもいけない。ネットワークが無かったら、どこのサイトにもいけない。

ネットの匿名掲示板については、その書き込みが匿名で行われるため、かなりルールもマナーも無い無法地帯となっていることに非難がされている。当然、ストレス発散の場、言論の自由、誰しも気軽に発信できる、などなどのメリットもあろう。ただ、匿名であるがゆえに、何でも書きこんでしまい、そこが犯罪の温床だとか違法書き込みが横行しているという指摘ももっともだ。

クルマ社会も、クルマでストレス発散出来る僕のような人も多いだろうし、どこの道を走ろうが、気軽にどこへでも行けるようになったが、ルールとマナーは存在する。それによって秩序は維持されている。ただ、一部の人間によりルールやマナー違反があり、交通事故・死者が発生してしまう。違反が無くてもそれらは発生しうる。
では、クルマ社会は後戻り出来るだろうか?いや、無理だろう。

インターネット社会は、インターネットの総じた便利さが、その一部に含まれる匿名掲示板のような暗部を上回っている限りにおいて、インターネットを無くそうという話は出てくるはずがない。

じゃあ、匿名掲示板を放っておいていいのか、という問いに対しては、おそらく良識ある社会は放置は許さない。何らかのルールが必要になってきている。もはやマナーに期待する段階は過ぎてしまっている。

クルマ社会においては、何らかの事故や事件の発生に備えて、その解決や犯人捜しを目的として(それが全ての目的ではないが)、ナンバープレートが付けられている。普通の人にはナンバープレートの情報から所有者や運転者を割り出すことはできないが、国や警察は可能だ。

匿名掲示板にも、おそらく何か起こった問題をなるべく解決・犯人捜しをしやすいように、一定の範囲の人間には所有者(書きこんだ人)に到達しうる情報を閲覧する権利があれば良いだろう。とすると、ネットの世界ではプロバイダの持つIPアドレスであったり、端末情報であったりするが、それらを警察などが最終的に合致させて書きこんだ人が特定できる、という状況さえ作り出されていて、その認知がなされれば、少なくとも無法地帯であることはなくなるはずだ。

ナンバープレートは、そもそもの目的は所有状態を管理することであり、事件捜査のためではない。が、副次的に所有者を特定するための有効な手段になり変わっている。
ネットにおけるIPアドレスやプロバイダが持つ情報や端末情報なども、もともとはアクセスを制御するためのベーシックな仕組みであるが、副次的に事件などの捜査に欠かせないものとなっている。

クルマ社会において、ナンバープレートを無しにすると、おそらく当て逃げや轢き逃げ、犯罪なども格段に増加してしまうだろう。ナンバープレートが、所有者の匿名性を担保しつつも、捜査の最終局面では重要な証拠になっている。

おそらく匿名掲示板も、例えば書いた本人に警察など一部の範囲の人間だけは到達できるような情報と共にデータが残ることがルール化されれば、最後は証拠となるので、今よりは事件・事故は減る。

そのぐらいはルール化しても、おそらく誰も文句はないだろう。それに文句を言うこと、すなわち自分は事件を起こせなくなる、つまりは犯罪者だと名乗るようなことであるためだ。

警察あるいは、ネット上の警察に代わる検閲者が存在しうるか、公的権力がネットを監視していて、最終的には書いた人間へたどり着ける確率がかなり高い、という認知が進めば、多くの問題は解決するはずだ。